※この記事は、講座での対話をもとにした補足解説です。
「自分のことを考える」ということを、あまりしてこなかった。
そんな話が出てきました。
ずっと外側に目が向いていて、自分がどういう人なのか、何をしていると落ち着くのか、どういうことを言われると傷つくのか。そういうことを、あまり意識してこなかったというんですね。
そして、いざ自分のことを考えようとすると、親のことがちらつく。
自分が進んでいっていいのか。
自分が幸せを感じていいのか。
そこに罪悪感のようなものも出てくる。
この話を聞いていて、私はギリガン博士がよく話していることを思い出しました。
40歳までは誰かのために生きて、40歳を過ぎて、そこからは自分のために生きる。
そんな話です。
最初は、誰かに教えてもらいながら生きる
私たちは、生まれた時には何も知りません。
どう生きればいいのか。
何が危険なのか。
何をすると喜ばれるのか。
何をしてはいけないのか。
そういうものを周りの人から教えてもらいながら生きていきます。
誰かの期待に応えたり、教えてもらったやり方を使ったりする。
それは当然のことでもあるんですよね。
何も知らないところから始まるわけですから、まずは誰かに教えてもらった世界の中で生きていく。
そして、そのやり方によって、ここまで生きてくることができたわけです。
でも、あるところから少しずつ、自分自身というものが出てきます。
「私は本当はどうしたいんだろう」
「これは本当に私のやりたいことなんだろうか」
「私は何をしている時に落ち着くんだろう」
教えてもらった生き方と、自分の中から出てくるものが、少しずつ違ってくるんですね。
自分が目覚め始めると、少し苦しい
ギリガン博士の話の中で面白いのは、「自分が目覚める」というところです。
それまで誰かのために生きてきたところから、自分自身が少しずつ出てくる。
でも、それは必ずしも気持ちのいいことばかりではありません。
むしろ、ちょっと苦しい。
なぜなら、今までのやり方が通じなくなる部分が出てくるからです。
これまでなら、周りの期待に応えていればよかった。
誰かに教えてもらったやり方をしていればよかった。
でも、自分自身が出てくると、それだけではうまくいかなくなる。
今まで大切にしてきたものと、自分がこれから大切にしたいものが違ってくることもあります。
そうすると、そこでいろいろな問題が起きてくる。
だから、自分のために生き始めるというのは、単純に「好きなことをすればいい」という話ではないんですよね。
それまでの生き方から少しずつ離れていくことでもあります。
自分の人生を考えると、誰かの顔が浮かんでくる
この日の対話でも、まさにそんなことが起きていました。
自分のことを考えようとすると、親がちらつく。
しかも、その人の感覚の中では、親は「後ろ」にいました。
自分の人生を進もうとしている。
でも、後ろにはこれまで自分を育ててくれた人がいる。
だから、
「自分だけ進んでいいのだろうか」
「一人にして大丈夫なのだろうか」
そんな思いも出てくる。
だとすると、自分のために生きることと、誰かを大切にすることは、簡単にどちらか一つを選べるものではないのかもしれません。
誰かを切り離して、自分だけ好きに生きればいいということでもない。
実際、この時にも、
「排除しようとするんじゃなくて、どう自分が向き合っていくか」
という話が出ていました。
「誰かのために」を捨てるわけではない
この後の対話では、世代から受け継いできたものについても話が進んでいきました。
私たちは親や、その前の世代から、いろいろなものを受け取っています。
世界はこういうところだ。
こうやって生きるといい。
ここは危険だから気をつけなさい。
そういうものを受け継いできたからこそ、今まで生きてくることができた。
だから、それまでの生き方を全部否定する必要はありません。
ある時期が来たら、
何をこの先も持っていくのか。
何はここで返していくのか。
それを自分で選べるようになる。
好きなところだけ持っていってもいいし、少し形を変えて持っていってもいい。
「ここまでで十分です。ここからは別のやり方をしていきます」
そうやって、次の世代に向けて自分が何を育てていくのかを選ぶこともできるんですよね。
誰かのために生きてきた時間が、間違っていたわけではない。
それが必要だった時期もある。
その中で身につけてきたものもたくさんある。
でも、あるところから、
「では、私はどう生きたいんだろう」
という問いが出てくる。
その問いが出てきた時、今までのやり方が少し苦しくなったり、周囲との関係が揺れたりすることもあるかもしれません。
それは、自分自身というものが少しずつ出てきている時なのかもしれないですね。
