クライアントに質問をすると、答えは返ってくる。
けれど、どこか表面的なまま進んでいくことがあります。話している途中で話題が次々に変わり、考えは広がるのに、体や感情の体験はあまり動いていない。
そんなとき、「今、椅子に座っていますね」といった当たり前のことを言って、何になるのだろうと思うかもしれません。
ただ、変化を急いで質問や解釈を重ねる前に、相手の注意が一つの体験にとどまれる状態をつくることがあるのではないでしょうか。
ミルトン・エリクソンが変化を起こす前に行っていたのも、まずはそうしたことだったのかもしれません。変化を押し込むのではなく、注意が動けば、体験は自然に動き始める。そのための入り口として、自明の理と呼ばれる言い方を捉えてみたいと思います。
当たり前の事実は、ただの情報にも、体験への扉にもなる
ここでいう自明の理とは、誰もが反論しにくいこと、すでに起きている体験を言葉にすることです。
例えば、椅子に座っている人に「あなたは椅子に座っています」と言えば、その人は「はい、座っています」と思うでしょう。間違いではありません。でも、この言葉は事実を伝える情報として終わることもあります。
一方で、こう言うことができます。
「椅子に座っていて、体が支えられている感じを、今味わってみることができますね」
座っているという同じ事実から始まっています。それでも、この言葉を聞くと、注意は自然に体の感覚へ移っていきます。
「座っています」なら、注意は言葉への確認で終わるかもしれません。しかし、体が支えられている感じへと言葉が続くと、今ここにある体験へ入っていくことができる。
自明の理は、現実を説明して「イエス」を得るためだけの言葉ではありません。すでにそこにあるものを手がかりにして、相手の注意をある方向へ誘う言い方にもなります。
「抜いてください」と言わずに、肩へ注意を向ける
この違いは、変化を求める場面ではよりはっきり見えてきます。
例えば、「肩の力を抜いてください」と言われると、指示や命令として受け取られることがあります。抜くように操作されている、変えられようとしている、と感じて、「嫌だ」と思うこともあるかもしれません。
そこで、こう言ってみます。
「今の肩の力の入り方に、気づくことができるかもしれませんね」
これは肩を変えなさい、とは言っていません。ただ、肩に今どのように力が入っているか、その体験へ注意を向けるよう誘っています。
すると相手は、「そうかな」と、自分の肩に注意を向けることができます。その後に変化が起こるとすれば、変化を外から押しつけられた形ではなく、体験に気づいたところから起こしていきやすくなります。
注意を誘うとは、相手を操作することではありません。むしろ、操作されている感じを減らしながら、その人が自分の体験へ入れるようにすることです。
相手が自分のペースで入れる余地を残す
このように自明の理を使うときには、「〜することができます」「〜かもしれませんね」「〜してもいいんですよ」といった言葉がよく使われます。
これは、曖昧にしているわけではありません。
相手が受け取りやすく、自分のペースで体験に入っていける余地を残しているのです。肩へ注意を向けるようには誘っている。でも、「そうしなさい」と決めつけない。
だからこそ、無理に質問をしなくても対話が深まっていくことがあります。クライアントが「そうなんです、そうなんです」と、言葉への同意ではなく、自分の体験の中へ自然に入っていくこともあります。
まず見ておきたいのは、相手の注意が今どこに向いているかです。そのうえで、すでに起きていることを言葉にしながら、次に注意を向けられる場所をそっと示していく。
「そんなことを言って意味があるのか」と思える当たり前の言葉も、ただの説明で終わるとは限りません。
その言葉が、相手の注意をどこへ運んでいるのか。そこを見ていくと、変化を起こそうとする前にできる関わり方が、少し違って見えてくるかもしれません。
