人と関わっていると、相手が話しているのに、どこか上の空に見えることがあります。表情は穏やかでも、注意はこの場にはなく、遠くへ行ってしまっているようなときです。
あるいは、自分自身もふっと意識を失ったような感覚になることがあるかもしれません。
疲れているとき。不安が続いているとき。反復する刺激のなかにいるとき。私たちは日常のなかで、自然に軽いトランスのような状態に入っていきます。電車に乗っていて、何もすることがなく、だんだんぼーっとしていくような状態です。
トランスは変化の入り口にもなります。しかし、注意や関心が低下しているとき、私たちに必要なのはさらに深く入ることではなく、現実のほうへ戻ってくることかもしれません。
では、人はどうすれば、ぼんやりした状態から、柔らかく明晰な「今ここ」の感覚を取り戻せるのでしょうか。
ぼんやりしているとき、意識は内側へ沈んでいる
ぼーっとしているとき、私たちは外の情報に注意を向けて、あちこちを見ているわけではありません。外界の情報は少しずつぼやけ、意識は内側へ沈んでいきます。
これは特別なことではなく、日常的に起きている変化です。だからこそまず、その変化に気づくことが大切になります。
トランスが起こりつつあるときには、いくつかのサインがあります。視覚でいえば、焦点が合わなくなります。誰かが一点を見つめながら、ほうっとしているような状態です。視界の感覚がぼやけたり、光がぼんやりしたりします。
体にも変化が現れます。ネガティブなトランスに入っていくと、呼吸は浅くなり、肩が落ち、姿勢も緩んでいきます。覚醒とは反対の方向へ向かっていくわけです。
こうした状態そのものが悪いわけではありません。そこが創造的な状態であれば、問題にはならないでしょう。
ただ、現実とのつながりを失うようなネガティブなトランスに入っているときには、活動をはっきりと行うことが難しくなります。そのとき、ぼんやりしていることに気づけるかどうかが、戻るための入口になります。
消そうとするのではなく、柔らかな心の消しゴムでなぞる
ギリガン博士は、このぼんやりした感覚を「柔らかな心の消しゴム」でなぞるように消していく、というイメージを語っています。
無理に目を覚まそうとするのではありません。ただ、その曖昧な感覚を消していくように想像してみる。
それだけでも、視界が少しはっきりしてきたり、体の感覚が変わってきたりします。
ぼんやりした状態を消す。そのことをイメージする。そして、感覚がどう変化するかに気づく。このプロセスを繰り返していくことで、私たちは状態の変化を少しずつ自分で扱えるようになります。
ぼんやりしている状態とはっきりしている状態。その両方を知ることで、そのあいだにある状態にも自分を置けるようになります。
過覚醒でも、夢見るような状態でもない場所
ぼんやりしすぎて現実を失っているわけでもなく、自分自身を過剰に支配するような過覚醒でもない。その中間にある、バランスの取れた気づきの状態があります。
それは「気づきの場」と言われるものです。
興奮しすぎているわけではない。かといって、リラックスしすぎているわけでもない。両方を持ちながら、今ここにいる。いわゆる、センターにいるような感覚です。
この感覚で過ごせるとき、私たちはさまざまなことを選択していく自由な状態でいられます。
トランスは、変化の入り口でもあります。そして覚醒は、そこから戻ってくるための技術でもあります。
大切なのは、どちらか一方に固定されることではないのかもしれません。深く入っていくことも、今ここへ戻ってくることもできる。そのあいだを自在に行き来できるとき、私たちは深く、そして自由に選べる状態に近づいていきます。
自分や目の前の人がぼんやりしていると感じたとき、すぐに何かを変えようとしなくてもよいのかもしれません。まずは、その状態に起きている視界や呼吸や姿勢の変化に気づいてみる。
そこから、柔らかな心の消しゴムで感覚をなぞるように、今ここへ戻る道が開いてくることがあります。
